特集4:「可哀想」の再検証

「かわいそう」の定義と慈しみ

そもそも「かわいそう」とはどういう意味の日本語なのか、いくつか辞書をあたって確認してみよう。

 

【精選日本国語大辞典】あわれで、人の同情をさそうようなさま、ふびんなさま。

【広辞苑第七版】ふびんなさま。同情に堪えぬさま。

【明鏡国語辞典】相手の不幸な状態に同情する気持ちだ。

【新明解国語辞典】弱い立場や逆境に在る者に対して、出来るなら何とか救ってやりたいと思う様子。

【Google日本語辞書】みじめな状態にある人に対して、同情せずにいられない気持であること。ふびんなさま。

 

「不憫(ふびん)」という言葉が散見され、これとほぼ同義だと説明されるが、これは「憐れみ」と同じ意味で、つまり「人の苦しみや悲しみに深く同情すること(Weblio辞書より)」である。

私が衣類たちを可哀想に思うとき、上の新明解国語辞典の説明がしっくりくるような気がする。「弱い立場や逆境に在る者に対して、出来るなら何とか救ってやりたいと思う様子」という説明だ。

まとめると、私が衣類たちを可哀想に思うとはどういうことかというと、「何の罪もなく、逃げも隠れもできない弱い立場の衣類たちが、雑に着用されていたり、ぞんざいに扱われている様子を見て、苦しみや悲しみに喘いでいる衣類たちをなんとか助けてやりたいと思うことこそ、かわいそうに感じている」というわけである。

同じくWeblio辞書には「(憐れみと)似た意味の言葉として、人に対して深い愛情を抱く「慈しみ」がある。 どちらも目下の者に向ける感情を表す表現であるが、「慈しみ」が対象を可愛がり、大切にするときに用いられ、「憐れみ」が対象に同情するときに用いられるという違いがある」との説明もある。

「憐れみ」も「慈しみ」も若干、上から目線的な感じらしいが、それはさておき、注目したいのは「慈しみ」という言葉だ。どちらも似た意味を持つようだが、私が衣類に接するとき、可哀想な感情以外に対象を可愛がりたいという感情=慈しみも併せ持つような気がする。単に可哀想に思うだけでなく愛情も感じている点で、「憐れみ(かわいそうだと思う気持ち)」と「慈しみ」を両方備えているようだ。


女性衣類を可哀想だと感じておられる方は少数派のようだが、いろいろなメッセージを読むにつけ、「可哀想」の内容は多彩であることに驚いている。

 

 

女性衣類は女性衣類として生まれたのであるから、女性に着られているときは幸せに違いないという人もいる。リメイクやリサイクルされる衣類も、使い古しとして放置されるよりは良いはずだという人もいる。男性の性欲解消の道具として使うことさえも、役に立たせているのだから不要品として捨てられてしまうよりはありがたいだろうという人もいる。

 

私は、もちろん女性衣類になったことはないので、衣類にとってどのような状態が本当に可哀想なのかは分からない。そもそも可哀想と感じることは、第三者から見た主観に過ぎない。

朝から晩まであくせく働いている人を、遊んで暮らせるような余裕がある人から見ると「休みなく働かされていて可哀想に」と言うかもしれない。でも、働いている人がそれを生き甲斐とし喜びを感じているとしたら、本人は可哀想な状態にあるとは思っていないはずである。

 

私自身、女性衣類というのは女性衣類に生まれたこと自体が不運で可哀想だと思っていた時期があった。女性に着られている姿も、女体に拘束されている状態だと感じていた。しかし、最近は原点に立ち返って、女性に着用されている瞬間こそ、衣類が最も輝いているときであり、衣類にとっても幸せな時間ではないかと考えるようになってきた。

 

衣類にとって幸せとは何か、可哀想とはどういう状態なのかを再検証しようと思う。

 

ここで一度、「可哀想」についての冒頭の私の考えをさておくことにし、さまざまな角度から「可哀想」を再検証してみようと思う。

 

まず、「女性衣類は、女性衣類に生まれてきたのだから、女性に着用されているときが最も幸せな状態である」とする。その逆、幸せでない、つまり衣類にとって嫌な状態であるのは着られていないとき、脱がれているときである。

衣類は、女性に着用されていると最も輝く。以前、ある男性有名デザイナーが、「洋服はハンガーに掛けられているときは死んでいる。女性に着用されているときこそ最も生き生きと輝く」というような意味のことを言っていたのを思い出す。

女性が着ている服は、制服など一部の例外を除いて、着用者自身が選んだものである。衣類は女性に選ばれたのだ。そんな誇らしいことはないだろう。選ばれた衣類はその恩返しとして、女性を輝かせようと頑張る。女性の膨らみと動きによって、衣類も生き生きと輝くことができる。相乗効果である。

衣類は立体的に製作されている。だから平置きやハンガーに掛けられたものは、その姿を十分に見せることはできない。それならマネキンやトルソーに着せればよいかと言うと、それでは足りない。生きた人間の動作が加わらなければ、衣類の本当の魅力を引き出すことはできないからだ。

立ち姿だけでなく、揺れるシルエットも考慮に入れてデザインされている。プリーツの割れ方や裾の翻り方、裏地の見え方などの外見、腕の上げ下げや着脱のしやすさ、足さばきの楽さ、裏地の滑りぐあいなどの着用者サイドのことももちろん考慮に入れられている。

 


さて、どこかで読んだことがあるのだが、可哀想と感じて親切にするのは、単に自分の感情を鎮める行為に過ぎないのだという。

散々殴られている人を助けるのは道徳的にも重要なことだと思う。では、尻に敷かれてシワだらけにされているスカートはどうか。私から見ると苦しそうに見えるが、実のところ、スカートはそれが心地よいと感じているかもしれない。衣類になったことはないので真実は分からない。

可哀想だと感じることは個人の勝手だから好きにしてよいとして、手を差し伸べることはやはり自分の感情を鎮める行為に過ぎないのか。助けられたスカートは「余計なことするな」と叫んでいるかもしれない。スカートにしてみれば、着用されるために生まれてきた身だから、女性に散々着倒されることこそが生きがいなんだと思っているかもしれない。座りジワは想定内、テカリは酷使の証(あかし)、最後はクタクタになって終わりたいと願っているかもしれない。

 

とはいえ、衣類たちも丁寧に着てもらいたい、愛情をもって接してもらいたい、大切にしてもらいたい、そしていつまでも役に立ちたいと願っているはずである。シワシワのドロドロにされることは嫌に違いなく、学校制服も在学中に毎日袖を通してもらっていたとしても、シワやシミが付かないように気をつけて着用され、脱いだときも丁寧に扱われて、定期的にきちんとメンテされたいはずである。衣類の身になって優しく接してもらえれば必然的に長持ちする。愛情いっぱい注がれて過ごした物はどんなものでも幸せそうだ。その結果、止むを得ずできたテカリや汚れ、擦り切れなどは衣類たちの勲章となる。

 


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