時代衣装

歴史上の衣類たち


大奥

第13代徳川将軍家定の御台所(正室)となった篤姫は、一日五回も着替えをしたという。そして、一度着た衣装は二度と袖を通すことはなかった。それらの衣装は下位の者たちへ払い下げられていったようだ。


明治維新

御殿や武家の打掛(小袖)や長着(着物)などは、ドレスに仕立て直されたり、格好の輸出品となり欧米へ流れていったりした。欧米ではタペストリーやランチョンマットにされたものも多い。

タペストリーにされると日焼けや煤汚れが甚だしいし、ランチョンマットなど飲食物で汚されまくって使い捨てになっただろう。


欧州宮廷

中世の頃より、ボディラインを美しく見せるために様々な工夫が衣装に施されている。特に胸部からウエストに繋がる部分を細く見せようと、コルセットを装着したり、上身頃部分をきつく縛り上げたりした。貴族たちは、ドレスを着用するたびに生地を締め上げるようにして縫い上げたほどである。ギンギンに生地を引っ張られるドレスはたまったものではなかっただろう。

1850年代の欧州貴族の間では、ウエストをさらに細く見せる効果を期待して、スカートを大きく膨らませることが流行した。そのときに使われたのが鯨ひげや針金を籠状にして組み合わせたクリノリンである。これにより、ドレスのスカート部は大きく広げられた。

しかし、あまりにボリュームがありすぎるために引っ掛かって転倒したり、スカートに火がついたりした例が多々あったらしい。Wikipediaによると、一説に年間20,000人もの人が事故にあったという。ということは、少なくともそれだけの数のドレスが痛い目にあっていたということになる。

同じく、19世紀後半から20世紀はじめにかけて、バッスルという行灯を縦半分に切ったような形状のものをドレスのスカート部に入れていた。ヒップラインを美しく見せるためのもので、日本でも明治時代に鹿鳴館などで着用された。バッスルに持ち上げられたスカートが歩いたり踊ったりするたびに、不用意に揺らされていたのだった。